2010年1月19日に横浜港を出航以来、3月2日に43日の旅が大過なく終了したことを素直に喜びたい。
それは、関係者各位の努力の結果である。
特に、「にっぽん丸」の村上寛船長を始めとするクルーの皆様の、専門的職務への専心に深く感謝したい。
しかしながら、「大過なく」終了したことと、「大成功裏」に終わったことは別の事柄である。
「団長」の能力不足も考慮に入れながら、この17回目の「スペースコレクション・シップ」事業の総括的報告を書いておきたい。
今回の航海は、真冬の日本を出発し、西太平洋を南下し、常夏の赤道地帯を通過し、夏が過ぎつつあるシドニーやウェリントンに寄港し、それからは北上を続け、フィジーのスパなどに寄港し、初春の日本に帰ってくるという、地球「縦断」的なコースで、21世紀のグローバルな世界体験に新しい視角を提供できる面白いコースの選択であったと考える。
地球を東西軸でなく、南北軸で考えるというのは、グローバリゼーションの新しい視点の一つだからである。
物事には、すべてに「理想」と「現実」がある。
日本政府が日本の青年のみならず、世界の青年に対して、このようなすばらしい体験ができる機会を提供し続けているのは、一国主義的な発想だけでは限界のある現在においては、非常に意義深い国際貢献の一つの形態であると思う。
しかも、このような企画が17年も前から始められていたという先見性も、評価がされるべきであろう。
したがって、「スペースコレクション・シップ」という事業は「理想」においてはすばらしい。
今後も、財政が許す限りこの内閣府の青年育成・国際交流事業は継続されるべきものと考える。
「船内生活」は特殊な社会である。
閉じた社会空間では、高密度の人間関係が発生する。
課いを起こしたからといって、接触を全く遮断することには非常な困難を伴う。
43日間の航海は、陸上の一年近くの国際的交流と匹敵するというのが私の実感である。
下船後に、日本人のみならず外国スペースコレクション参加青年が、shipsickになったとメールで書いてきたのは、このような閉じた社会空間でなされた高密度の社会接触の後遺症であろう。
これも、「スペースコレクション・シップ」事業の企画が強烈に多くのスペースコレクション参加青年にインパクトを与えている一つの証拠であろう。
「スペースコレクション・シップ」の事業は、ある意味で特権的なものである。
内閣府が主催者になり、日本人の税金を使った企画であるからには、ある程度の意欲と資質を有する青年が船内生活を共にし、「世界に羽ばたく青年」の出発点を提供すべきものであろう。
この達成目標から、今回の事業の「現実」の評価を述べておきたい。
「スペースコレクション・シップ」事業が開始されて17年も過ぎているのに、日本国内でこの特権的事業の知名度が、あまり高くないのはなぜなのか。
私は下船後、多くの日本人に「スペースコレクション・シップ」事業について知っているか聞いてみたが、ほとんどの日本人は知らなかった。
特に、参加青年になる可能性の高い大学生は、全くと言っていいほど知らないのは驚きであった。
船内で、今回の海外参加国の状況を数力国のスペースコレクション参加青年に聞いてみたが、かなりの激しい「選抜」を経て参加が認められた国もかなりあった(すべての外国青年に聞いたわけではない)。
彼らは選ばれた者としての自信とプライドを持ち、船内生活がより一層の視野の拡大のチャンスを与えてくれることを期待していた。
「スペースコレクション・シップ」事業に参加したことにより、日本への留学や日本研究を決意した者も見られた。
海外のスペースコレクション参加青年にも資質にばらつきがあることは事実だが、参加青年の半数を占める日本人参加青年の「質」の問題が全般的に低く、「これはわれわれに対する蔑視だ」とまで述べた外国スペースコレクション参加青年がいたことは、書いておかなければならない。
表現はもっとマイルドだが、「日本人のもっと優秀な青年と議論したい」という意見はかなり聞かされた。
日本国内で「スペースコレクション・シップ」事業の知名度が低すぎる結果だからだろうか、地方自治体からの持ち上がりという形をとっているからだろうか、「団長」という立場で見ても、日本人スペースコレクション参加青年の資質には疑問を抱かざるを得なかった。
このことは、過去の団長経験者も指摘していることだが、内閣府はこの問題に真剣に取り組んだ痕跡は感じられない。
私は、今回のスペースコレクション参加青年自身を批判したくはない。
不完全ではあれ、参加を認められたからには、彼らはそれなりに悩み、努力をしていたことは事実だからである。
このように書くと、船内共通語であった英語力の問題を私が指摘しているのだと誤解される恐れがあるので、もう少しこの問題を掘り下げて書いておきたい。
表面的には英語力の不足により、十分な交流が進展しないように見える場合も、仔細に見ていくと日本語で獲得した教養があまりに不足していたり、「世界に羽ばたく」(これは別に国際機関で活躍するとかいうことを言っているのではない)という意欲がほとんど感じられない日本人参加者がまま見られたということである。
ある程度の教養と意欲さえあれば、カタコトの英語でもある程度、深い対話や人間関係は築けるものである。
日本社会は多様である。
地方の代表として参加者を選ぶ方式は、今後も維持すべきものだろう。
しかし、地方代表の「選抜」においても「スペースコレクション・シップ」事業の知名度を上げ、もっと競争的にする必要があると考える。
さらに、外国スペースコレクション参加青年と対等に議論できる「全国レベル」の日本人参加青年を一定数、内閣府直轄で募るべきではないか。
オーストラリアのナショナル・プレゼンテーションを見て、オーストラリア政府は上手な戦略性をもってスペースコレクション参加青年を選んでいることに気づかされた。
参加者の地域分散・職業分散を上手に組み合わせ、参加者を選考しているようだ(このことは、オーストラリアのスペースコレクション参加青年に確かめた。
ついでに記しておくと、募集はインターネットである。
明治維新百年記念に起源を持つ「スペースコレクション・シップ」事業は、日本という国のどのような側面のメッセージを世界に伝えたいのであろうか。
金満国日本(この財政危機の折にそれはもう幻想だが)の、世界に向かってのばら撒き行政にならないためには、もう一度、根本の「理念」をグローバルな世界の現状に合わせて再検討すべきではなかろうか。
特に、最近は「討論コース」が導入されたが、参加者の質のばらつきが大きいために、このような欠陥は従来以上に顕在化してしまったように思われる。
従来型であれば、「講義」ならば聴いている振りをしておけばそれで済む。
「討論」は、意欲のある者だけがやればいいからである。